2020-03-04

エルサレムは誰のもの?




2019年3月。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。
三宗教の聖地、エルサレム旧市街を訪れた。






ここには、四方1kmの城壁の中に、
ユダヤ人にとって、神から与えられたカナン(理想郷)の地であり、
最も大切な祈りの場となっている、嘆きの壁
イエスが十字架にかけられ、亡くなった聖墳墓教会
そしてムハンマドが昇天したとされる岩のドームなど
それぞれの聖地が隣り合って存在している。



どうしてそんなことになっているのかというと、
それは、元をたどれば3つの宗教の信じる神様が同じで、
そしてどれもイブラヒム(アブラハム)という人物を祖としている宗教だから。
ユダヤ教の“ヤハウェ”、キリスト教の“ゴッド”、イスラム教の“アッラー”は、
呼び方は違うけれど、それぞれの言語でどれも「神様」を表す言葉。
ただひとつの神様を信じる同じ一神教の仲間であり、
3つの教えは、ある意味お互いに兄弟のような存在でもある。






ここで、3宗教の話を少し。


まず、3つの教えの共通点や違い、関係をまとめたのが以下の表。



ユダヤ教
キリスト教
イスラム教
神さま(呼び方)
ヤハウェ(ヘブライ語)
ゴッド(英語)
アッラー(アラビア語)
モーゼ
預言者
預言者
預言者
イエス
偽メシア
救世主・神の子(=)
預言者
ムハンマド


最後の預言者
旧約聖書
唯一の聖書
聖書(古い約束)
聖書
新約聖書

聖書(新しい約束)
聖書
クルアーン


本当の聖書

※預言者=神のことばを預かる者
※メシア=救世者



これら3つの一神教ストーリーには連続性があって
本でたとえるなら、ユダヤ教が第1巻、キリスト教が2巻、
そしてイスラム教が3巻、のようなイメージ。


始まりのユダヤ教は、神から選ばれた民ユダヤ人の物語で、
モーゼを通して伝えられた。
後にあらわれたキリスト教もイスラム教も認めていない。

キリスト教は、ユダヤ人であるイエスの新しい教えで、
「ユダヤ人ではなくても神を信じるものは誰でも救われる」
と、選民思想を否定していることから広く受け入れられた。
ユダヤ教の旧約聖書を元にした神との新しい契約(新約聖書)を重要視している。
イエスはもともとキリスト教という宗教を作ろうとしたわけではなく
ユダヤ教改革として新たな教えを広めて行った。
そのイエスの教えを元に、後に弟子たちが聖書や宗教体系を構成。
そうして生まれたキリスト教には、
三位一体の理論があり、イエスを神の子として神格化。
また後から出てきたイスラム教を認めていない。

最後に誕生するのが、イスラム教。
キリスト教でもおなじみの大天使ガブリエル(ジブリール)が、
善良なアラブの商人ムハンマドに直接神のことばを伝えた。
読み書きのできなかったムハンマドから人々へ
暗唱されることによって伝えられた神のことばを
全く変えられることなくアラビア語でそのまま記されたのがクルアーン。
イスラム教は、ユダヤ教・キリスト教の預言者2人を認めていて
それぞれの預言者が伝えたことは正しかったと確かに認めているけれど
各聖書や教えの内容は後の弟子たちによって一部改ざんされている、という見解。
イエスについては神ではなく
あくまで神のことばを伝えた“人間”である預言者との位置づけ。








イスラエル最大の観光地であり巡礼地、エルサレム旧市街。

街はそれぞれの宗教や民族毎に住み分けがされており、
歩いているうちに街の通りの雰囲気が変わるのに気づく。





はるか遠い昔、2000年近く前。
かつてこの壁の向こうには、ユダヤ王国の神殿が建っていた。
その神殿はローマ軍により破壊されて、残ったのは外壁のこの部分のみ。
神殿が破壊され、再建されることもないためユダヤの人々は深く悲しみ、
嘆いたことから「嘆きの壁」と呼ばれるようになった。




壁に額をつけて、祈る人たち。
ユダヤ教の聖書を読んだり、体を前後に揺すったり、
それぞれ一心に祈る姿はとても美しい。




向かって左側が男性で、右が女性の祈りの場所。
夫婦と肉親以外の男女が、物理的に接触することを、
ユダヤ教では禁じられていることが、分けられている理由。




黒いスーツ、黒ハット、長いもみあげ・・・
全身黒づくめのこの男性たちはユダヤ教超正統派の方々で、
聞くところによると祈ることが職業らしい。
イスラエルのユダヤ人の中でも超正統派の方は少数派のようだけど
ここは聖地エルサレムなので、沢山みかけます。
エルサレムの郊外には超正統派の方々の暮らすエリアもあるようです。

エルサレムではこのような格好をした男性があちこちに。
名探偵コナンに出てくる黒の組織と
同じようなスタイルの人たちが沢山いる!
と、コナン好きの私はちょっと興奮。笑



このように大きなハットを被ってる方もいました
超正統派の方々からは、独特の世界観を感じる。
彼らは週一日の安息日には、労働に当たる行為が禁止されていて、
火も電気も使わない生活をするのだって。
食事の規定も細かにいろいろあるユダヤ教。
たぶん、戒律としてはイスラム教よりずっと厳しいんじゃないかと思う。
話しかけづらい雰囲気はあるけれど、落ち着いた佇まいがなんとも素敵。
賢そうで礼儀正しくて、服装もかっこよくて、
街歩いてるの見ると釘付けになってしまう。




嘆きの壁の向こうには、神殿の丘がある。
その丘に建つのがメッカ、マディナに次ぐイスラム教第3の聖地、岩のドーム。
金曜日の礼拝時刻だったせいか、中へはイスラム教徒以外は入れないようだった。

「アル・ファーティハを暗唱して」と入り口の警備員に言われ
スラスラと言えたので合格。無事に中に入れました。
(アル・ファーティハはクルアーンの第1章で、
ムスリムであれば誰でもアラビア語で言うことができるはず)





ドーム内にある巨石が、そのまま“岩のドーム”の名の由来。
預言者ムハンマドが大天使ガブリエル(ジブリール)に誘われて、
この岩から天界を旅したと言われ、
その岩にはムハンマドの足跡やガブリエルの手の跡まで残っているとか。
手足の型までは見れていないけれど、
女性たちに混じって一緒に午後の礼拝してこれました。

陽の光に照らされ輝く黄金のドームはとても綺麗で
さまざまなブルーのタイル装飾が美しい。





この時エルサレムで泊まっていたのは、
オリーブ山のムスリム地区にある“イブラヒムピースハウス”
長年平和活動をしていて、ホワイトハウスでも公演したことがあるという、
イブラヒムおじいさんがやっているという宿。

イブラヒムおじいさんは体調がすぐれないらしく
私が訪れた時は入院中で残念ながら会うことはできなかった。

宿ではボランティアをしているというウクライナ出身の女性が
食事やら色々世話を焼いたり親切にしてくれました。

ここに宿泊している面々はなんだか個性派揃いで
すでに8ヶ月住んでるというカナダからの白髪のおじいちゃん、
神に導かれてやってきたという白ひげのアメリカ人、
ヒッピー風の風貌でちょいファンキーなオーストラリア人、
あと同室になったロシア人女性は敬虔なキリスト教徒で
巡礼のために一週間滞在していると言っていた。

食事の時間になると自然と集まってみんなでご飯をいただいている。
私もちゃっかり、混ぜていただいた。


国籍も人種も言葉も、宗教もここに来た目的も
みんなバラバラだけれど、イブラヒムハウスには
平和で穏やかな空気が流れていた。





***




3つの宗教の聖地であるエルサレムは、
国連によって管理されていて、どこの国にも属していない場所。


センセーショナルな場所であるのにもかかわらず
トランプ大統領が米大使館をテルアビブからエルサレムへと
移転し物議を醸したことは記憶に新しい。
(エルサレムをイスラエルの首都と認める=エルサレムはイスラエルのものだと、
国連の同意なしに一方的に決めてしまったようなもの)
こうした背景には、アメリカに多くのユダヤ人支援者がいるということや、
トランプ大統領の娘イヴァンカの婿クシュナーが
大統領の上級顧問(大統領の数々の政策を作っている)であり
ユダヤ人である(=結婚してるので娘もユダヤ人)というのが大きいだろう。





エルサレムは、
どこにも属さない方がいいのだと思う。
そもそも国と国は、誰かの都合で後から国境線が引かれ
分けられてしまったものだから
争いの元となる国境なんてほんとうはない方がいい。


Live Without Borders... 
不可能なことなのかな


離散や迫害の歴史を繰り返し苦難を強いられてきたユダヤの民が、
約束の土地を何としても守り自分たちの安住の地にしたいという想いも
理解できるのだけど
でもそのためにパレスチナ人を追い出すというのは理由にならない。


異なる宗教も民族も、バランスを保って共存していける日が来るといい。
共存の道が、どこかに見つかりますように。




***




どの聖地でも、どの宗教でも、
祈りの姿というのは、変わらずとても美しい。
一心で、とても純粋なもの。




世界中、さまざまな宗教が存在しているのは、
文化、気候や風土、人種などの違いのなかで
それぞれに一番受け入れやすく馴染みやすいように
形を変えて浸透するよう神様が計らってくれているからだと思う。



イスラム教の教えでは、神様はこれまでに、
世界中に何人もの使徒を繰り返し遣わして来られたとされています。
モーゼもイエスもムハンマドも、
そしてブッダももしかしたらそうした一人だったんじゃないか?
とわたしはひとりで考えたりしている。



そして、それぞれの教えは、進む道こそ違えど
最後にはおんなじ最終地点へと辿り着くのではないかと思っている。



本来宗教とは、人が平和に安らかに
そして幸せに生きるための教えではないかな。
きっとどんな教えも、本質は同じなんじゃないかな。


それならば、それぞれの角度から得た学びを
お互いに共有して行ければとても素敵だと思う。
きっと、新たな視点での学びは
人間を真実へ近づくためのさらなる旅路へといざなってくれる。



クルアーンの中で、大好きな一節があります。


人々よ、われは1人の男と1人の女(アダムとイブ)からあなた方を創り
種族と部族に分けた
これはあなた方を互いに知り合うようにさせる為である (Qu'ran49-13)



私の場合は、学びの窓口としてイスラームを選びました。
ムスリムの中には「天国へ行けるのはイスラム教徒だけ」
と言う人もいますが、私はそうは思いません。
正しく生きていれば、ムスリムじゃなくたってみんな報われると思います。
信じる対象は、自分の心惹かれたものならなんでもいいのだと思う。
神様を信じない、無宗教ならそれでもいいと思う。
でもやっぱり、お互いのことを知り合うためにも、
相手の信仰を知ることはとても大切だと思います。







イスラエルの人もパレスチナの人も、みんな、
ただただ、平穏な幸せを願っているだけなのだと思う。
宗教はとても純粋なものであるはずだけど、
それは時に利用され、本来の問題とすり替えられ、
そうして、物事がどんどん複雑になってゆく。



真の創造主が、私たちが争い合うのを見ていたら、
地球上のさまざまなことをどう思われるのだろう。





お互いの違いを尊重し、大切にしあえる世界。
そんな世界へと一歩近く鍵もまた、
みんなの心の中でそれぞれ信じるものの中に、
あるのではないかと思う。



***

この記事を書く上で参考にしたオリラジ中田敦彦youtube大学の動画が、
とっってもわかりやすくて、3宗教やパレスチナ問題を勉強するのにおすすめです!


トータル80分!
長い!と思われるひともいるかもしれませんが、
むしろ、本何冊分もの知識をこんなわずかな時間に
凝縮されていることが奇跡だと思います。





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