2019-09-16

フンザで肉を食べてはいけない?


ポプラの木々が黄金色に染まる、フンザの紅葉を見たかった私は、
北西の辺境チトラールを飛び出し、東へと旅立った。


旅立とうとする前日。
チトラールのある友人がしてくれた助言の一つが、
私には、どうしても、理解できなかった。



その助言というのは、
「フンザに行ったら、肉を食べてはいけないよ」
というものだった。





ムスリムが食べるべきではないものとしては、豚肉やアルコール類がある。
豚肉以外の、鶏肉や牛肉は、食べることが許されているもの。
しかしそれは、「イスラム教徒によって神様の名を唱えられた上で
もしくは、啓典を与えられた民(ユダヤ教徒、キリスト教徒を指す)によって
定められた方法で屠殺された肉ならば」という条件付きである。



※喉を切る際に脊髄を切断することなく、気管、食道、頸静脈と頸動脈が
 全て同時に切断されなければならない。
 この手法が、動物の屠畜における最も人道的で、苦しまずに済む手法といわれる。

 イスラーム的屠殺に関してはこちらに詳しく述べられています。



なので、日本に暮らすムスリムも、
そうした条件をクリアした国産のハラール(許されている)肉を買うか、
ブラジル産やオーストラリア産など、キリスト教系の民が暮らす国の
輸入肉を購入して食べる人が多いようである。

味なとりなど、国産のハラール肉を扱うショップがある




さて、パキスタンはというと、人口の約97%がイスラーム教であるし、
これから向かおうとしている北部フンザも、
イスラーム教徒が大多数を占めている地域のはずだ。



では、なぜ、肉を食べてはいけないのか。





チトラールが属するカイバルパクトゥンクワ州は、
スンニ派が多くを占める地域で、敬虔なイスラム教徒も多い。



「シーア派はムスリムではない、イスマイリー派もムスリムではない。」
そういう考えを持つ人も、中には存在するようだった。
私に助言をしてくれた友人も、そうした考えを持った人物だった。



彼(スンニ派のムスリム)にとって、
「イスラム教徒ではない」イスマイリーの人々が屠殺した肉は、
ハラーム(禁止されているもの)になる、ということのようだ。




ただし、お互いのことをムスリムとして認めるか認めないか、という話は別として
チトラールにはイスマイリー派も一定数暮らしており、
スンニ派、イスマイリー派、それぞれ良好な関係を保ち共存している。

(宿の住み込みスタッフのイルファンはスンニ派、
ハミッドはイスマイリー派ということだが、
2人とも非常に仲が良く、言い争いなどしている姿は一度も見たことがない)







各宗派は、後継者問題から分派して行ったこと、
そこからわずかな教義の違いが生まれて行ったことは理解している。


けれど、

「アッラーの他に神はなく ムハンマドは神の使徒である」

私はモスクでこの言葉を証言し、ムスリムになったはず。
シーア派ではこの証言に続いて
「そしてアリーはかれに愛された者、選ばれた者であり、預言者の後継者である」
という文言が続くようだが、とにかく最初の証言は共通している。
スンニ派の一部の人から言わせると、シーア派は預言者の後継者を神聖視し、
神以外のものを神と並べて配している偶像崇拝に過ぎないとして、
異端であるということのようだ。



しかし、同じアッラーを唯一の神として認め、
預言者ムハンマド(s.a.w)に従う人たちがムスリムであると定義されるのならば、、、
その大前提が変わらない以上は、
スンニであれシーアであれ、イスマイリーであれ、皆ムスリムではないのか。







この問題について、イスラームの宗派について、
モヤモヤと煮え切らない想いを抱えたまま日本に帰国し、月日が流れた。




疑問に対する答えが欲しくて、注意深くクルアーンの内容を読みこんでいく中で、
私はようやく、この疑問に対する答えを
アッラーの言葉の中に見つけることができたような気がしている。




あなた方はアッラーの絆にしっかりと一緒につながり、分裂してはいけません。
あなた方へのアッラーの恩寵を想いなさい。
あなた方が敵であったとき、彼はあなた方の心を結び付け、
かれの恩寵により、あなた方は兄弟となったのでした。
【クルアーンやさしい和訳 3章103節】



啓典の民よ、わたしたちとあなた方との間の(次のような)共通の教え(の下)に来なさい。
わたしたちは、アッラーにのみ仕え、何ものをもかれに並置いたりしません。
【クルアーンやさしい和訳 3章64節】



信仰する人たちよ、アッラーに従いなさい。
また使徒と、あなた方の権能をもつ人たちに従いなさい。
あなた方の間で異論があれば、アッラーと使徒にそれ(事案)を戻しなさい。
もしアッラーと最後の日を信じるのなら。
そうすることは(結局)最も善く、最も妥当なのです。
【クルアーンやさしい和訳 4章59節】






この言葉を私なりに解釈して今思っていることは、




次、パキスタンに行くことが出来たら、
チトラールの人たちとも、フンザの人とも
おんなじ食卓を囲んで美味しいお肉を口いっぱいにほおばりたいということ。




スンニ派、シーア派、イスマイリー派である以前に
みな、ムスリムだ。




現状において互いの教えを無下にしないためにも必要なのは、
違いを語ることではなく、共通点に合意することでは。





それは、イスラームの宗派間の問題に関してだけではなく、
世界中にある様々な信条を持った人々の間においても、同様だと思っている。










2018年10月の旅の記録と、帰国後の思索から


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