山の民が暮らす土地。
以前の記事で「スワートはパシュトゥン人の多い地域」と書いたけれど、カラームとその周辺は例外。カラームは、「コヒスタン語(現地の人は“Khohi”もしくは“Ghohi”と言っていた)」を話す、コヒスタン人が多く暮らす土地。コヒスタン人同士ではコヒスタン語を話すが、パシュトゥー語の通用度も高い。
そしてその次がウルドゥー語。そしてごくごく稀に英語を話す人もいる。
ちなみに「コヒスタン」は、「山の国」という意味。
文字通り、コヒスタンはこのあたり一帯に広がる山岳地帯のエリア指す。
彫りの深い精悍な顔立ちをした人もいれば、青い目をした西洋人のような顔立ちの人もいた。
小さな子どもの中には金髪の子もちらほらと見かける。
民族衣裳をまとった金髪の子どもたちと言えば・・・スターウォーズエピソードⅠに出てくる幼少時代のアナキンを思い出す。
「あっ、あそこにアナキン」「あっ、ここにもアナキン」なんて内心ちょっと興奮しながら街を歩いていたのだった。(昔からアナキンの大ファンです)
https://oneslip.exblog.jp/2958452/より
生きるのが楽な土地ではない。
「長い長い、苦難の時代があったんだ。」
カラームの人々はそう話す。
今でこそ、少しずつ国内観光客が集まりだしたカラーム。
だがミンゴーラ同様ここカラームも、タリバン支配による空白の数年間がある。
今は道路も整備されつつあるけれど、以前は自然災害による道路の寸断も日常茶飯事だったようだ。
街に出るためには徒歩で向かわなくてはならない。つい数年前まで、そういったことは頻繁に起きていた。
寒い地域なので十分な作物も育たない。教育が遅れ、貧しい人が多い。
カラームにいる間(後半)セキュリティとして付いてくれた24歳のママドゥシャーンは、気さくで陽気なKPKポリス。
母親がペシャワール出身のパシュトゥン人、父親がカラーム出身のコヒスタン人とのハーフ。
彼とも、カラームについて色々と話をした。
ママドゥシャーンはなかなかのペシャワール贔屓で、カラームはあまり好きではないのだとか。
理由を聞いてみると、「カラームは冬が長くて寒いし、貧しい山岳地帯だし、教育も遅れているから。」とのこと。彼からすると、ペシャワールの方がずっと暮らしは裕福で豊からしい。教養のある人も多くて、人々がみんなフレンドリーだから、とも言っていた。
ママドゥシャーンは、1年前に結婚したばかりの新婚さんなのだが、カラーム出身の奥さんは学校で教育を受けていないとのことだった。
デコトラと、山の民。
カラーム周辺では、大人や子どもたち、家財道具、物資、家畜を一度に満載したデコトラを多く見かけた。
すれ違う度に、ママドゥシャーンが「あの人たちは、貧しい人たちなんだ。」と言う。
よくよく聞いてみると、デコトラに乗っている人たちはカラームの特に奥地の山岳地帯に暮らす家族らしかった。
冬のカラームは、雪で閉ざされる。
カラームの奥地では十分な食べ物もなく、外部からも入ってこなくなるために冬の間は生活ができなくなってしまう。
そのため厳しい環境で暮らす人々は、冬の間は温暖なパンジャーブシアールコートなどで過ごし、そして雪が溶け春になると、多くの家族が一斉に帰ってくるのだという。今回は、ちょうどその移動の時期だったようだ。
ママドゥシャーンは、「彼らの暮らしはとても貧しい」と嘆いていたけれど
長い冬を終えた故郷に帰ってゆく彼らの顔には、微かな笑みが見て取れた。
これからのカラーム
「9.11以降、全てが変わってしまったんだ」
カラーム滞在中、英語の通訳やら何かと世話を焼いてくれたShahidは、仕事でこれまで16の国をまわり、お隣インドには60回以上渡航してきたという凄腕の商人。
様々な場所をまわり、美しい景色や建造物をたくさん目の当たりにして来たShahidだが、それでも生まれ育った故郷であるパキスタンが一番好き。外国からパキスタンに帰ってくると、「どこにも負けないくらい美しい場所だ」と感じる。だけど、そこに旅行者の姿はなく、いつもとても落胆するのだという。
「9.11以降、全てが変わってしまったんだ」
Shahidはそう話す。
同時多発テロ。
そして、アメリカによって仕掛けられたアフガニスタン戦争。
隣国パキスタンへの影響は大きかった。
アメリカによる資金援助により、大量の武器が流れ込む。そしてタリバンの台頭。
争いが激化していたアフガニスタンからは大量の難民が流れ込み、混乱が続いた。
パキスタン国内の治安も悪化。
こうしたことにより激減した外国人観光客は今も十分に戻ったとは言えない。
カラームの希望。
カラームに滞在中、バザールでたまたま会った人やどこからか私が来ていることを聞きつけた村の人々が、よくホテルを訪ねて来た。
地元の小学校や高校の先生など、教育者たちが何人か訪ねてきてくれて、一緒に話をした。日本ではどういう教育体制なのかなどなど、興味津々だった。
政府の観光省の人や地元の役人さんからは、カラームの観光に関するアンケートやインタビューを受けた。
カラームやスワートをどう思うか、実際に滞在して見てどうだったか、どんなところが素晴らしかったか、問題点は何か、もっと必要なことは何か、日本や他の国と比較してどうか、人々はどうか、セキュリティについてどう思うか、ここを訪れようと考えている人へのメッセージなど。
パキスタンの将来には、ツーリズムは不可欠。
とくにここ最近になってカラームが観光地として注目されるようになり、政府も力を入れ始めているようだ。
地元の知識人たちも皆必死だ。
どうにかしてカラームをもっとより良い場所にしたい、多くの人に訪れてほしい。
そんな思いがひしひしと伝わって来た。
“カラームは、これからの場所なんだ”
と感じた。
パキスタンの中でも辺境に位置するこの地域は、地理的・歴史的・様々な理由により色々なことが発展途上だ。
だけど、これだけ地域のことを考え必死によくしようとする人がたくさんいる。よくならないわけがない。
このまま行けばこの地域は数年のうちに、おそらく見違えるような観光地になるだろう。
多くの観光客で賑わい、人々の生活が潤う日も、きっとそう遠くはないはずだ。
その日が一日でも早く訪れるといい。
そのためにも、パキスタン国内の治安が安定し保たれてゆくことを願ってならない。
カラーム出発の朝。
ホテルでお世話になった人たちや商人のShahid、ポリスがお見送りをしてくれた。
初めは印象の良くなかったカラームだったが、カラームを去るときにはいつのまにか、大好きな場所の一つになっていた。
人々があまりフレンドリーでなかったのは、単に外国人に慣れていないだけだとわかった。
話してみると(と言っても英語はほとんど通じないが)、実は誠実で心温かな人々が多かった。
いろいろと冗談を言っては笑わせてくれていたポリスのママドゥシャーンには
「カラームでの体験を君の家族や友達に伝えて。君が見て美しいと思った景色とか、考えたこととか。セキュリティポリスがFUNNYだったってことも忘れずにね!」
と言われた。
ホテルのスタッフにもとてもよくしてもらった。
夕方、ポリスが家に帰った後、私が夕食を食べに行ったり買い物に行きたいと言うと、嫌な顔一つせずに付いてきてくれて、最後まで付き合ってくれた。
宿でも美味しいご飯やチャイをたくさんご馳走していただいた。
パキスタンでは本当にあちこちで熱烈な歓迎を受けるのだが、その度にどうお礼をしたらいいものかと考えてしまう。(パキスタンの人たちはお礼が欲しくて親切にしてくれているわけでないことは十分に理解しているけれど。)
貧乏バックパッカーだし、必要最低限の荷物しか持っていないのでプレゼントできるものもない。(花のキーホルダーはあっという間になくなり・・)
結局今の私にできることと言えば、自身の体験をこうして写真と文章でみんなに伝えることくらいだ。
ただの一旅行者に過ぎない私の発信力など微々たるものだけど、それでも何もやらないよりはいい。
でもやっぱり、写真にしても文章にしても経験においても・・・
もっと力が欲しい。
そして欲を言えば、、、というよりむしろ一番大切なことかもしれませんが・・・
ハードな旅にも動じない健康な体が欲しいです。
2018年5月 旅行記より
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