2018-08-26

タリバンに撃たれた少女の故郷へ【パキスタン・スワート】


今回の旅も、瞬く間に一ヶ月が過ぎてしまった。
残された期間、どこの地域をまわろうか・・・。
北部スカルドゥ周辺、カラコルム・ヒマラヤの雄大な山々の村も見てみたい。
でも、 去年も訪れたアフガニスタン国境沿いに伸びる北西部カイバルパクトゥンクワでの感動も忘れられない・・・
ぎりぎりまで考えた末に、北西部地域に惹かれ続けている自分の想いに気づきます。
そうして、そのまま自分の心に従って次を目指すことにしたのでした。




スワート渓谷へ。


イスラマバードの郊外からバスに乗り、まず始めに向かった先は「スワート渓谷」

イスラマバードからバスで約5時間の道のりを経て辿り着けるスワートは、刺繍など手工芸品でも有名な場所。
スワートを南北に流れるスワート川は、ペシャワールやアフガニスタンへと続くカブール川の支流にもなっています。
部族の掟を持ち、パキスタンのイスラム教徒の中でも特に保守的なパシュトゥン族が多く暮らす土地でもあります。

スワートの中心地となるのはミンゴーラという大きな街です。
紀元前2世紀から紀元9世紀頃にガンダーラ仏教文化が盛んになったこともあり、古代ガンダーラ王国時代の遺跡が多く残っている、歴史の古い街でもあります。三蔵法師が聖地としてスワートを訪れたとの記録もあるようです。

スワートは山岳地帯のイメージがあったので、夏でも涼しい地域なのかと思っていたけど、下スワートに位置するミンゴーラは違いました。
5月でも昼間の気温は40度近くまで上がります。うだるような暑さの中ギラギラと照りつける太陽の下を歩いていると、汗が滝のように流れ落ちてゆく。夜の間、停電でファンが止まってしまった時には部屋の中はサウナの如く暑くなり、いくらか風の通るベランダに出て涼んだりして、寝たり起きたりを繰り返し夜を過ごしたのでした。

対してスワート川の上流地域は「上スワート」別名「東洋のスイス」とも呼ばれ、美しい景色の広がる山岳地帯。標高3000m〜5500mほどの場所にあるために、夏の間はパキスタンの代表的な避暑地・観光地として知られています。私がスワートに来ようと思ったきっかけも、パキスタン人の友人の「(上)スワートのカラームっていう場所が綺麗だから行った方がいいよ!」という一言でした。


緑豊かで、美しい山並みが広がる渓谷、スワートですが、実はここ、数年前まではタリバンに支配されていました。
もしかすると、ニュースでスワートという地名を聞いたことがある方もいるかもしれません。


今日は、スワートの訪問記をまとめる前に、ほんの数年前のスワート渓谷で起きていたこと、そしてそこで教育のために立ち上がった勇気ある少女のことを、お話したいと思います。


スワートとタリバン。


2007年、パキスタンにて、パキスタン・タリバン運動(TTP)が発足されます。
TPPは、隣国アフガニスタンの反政府勢力タリバンを支持する部族単位の武装グループが集まって設立されたイスラム過激派組織。イスラム法による国の支配を目指し、政府を打倒するためテロ攻撃を続けていました。

タリバンは2007年頃からスワートを拠点とし、その全域に勢力を広めてゆきます。
タリバンは厳格なイスラム原理主義に則ってスワートを支配、そして人々をどんどんと恐怖の中に陥れて行きます。
タリバンはまず、スワートの人々から音楽や芸術、あらゆる娯楽を取り上げます。
そして女の子に教育を与えてはいけないと主張、学校に通うのも禁止します。
次々と学校や橋が破壊され、多くの店が営業をやめさせられました。
女性は血縁関係のある男性の同伴がないと外を歩くことも許されず、ブルカを強制されます。
そして徹底的なイスラム原理主義を掲げ、他信仰や偶像崇拝を断じて認めないタリバンは、かつては仏教都市だったスワートに残る、貴重な仏教遺跡や仏舎利塔を次々に破壊して行きました。

こうしたタリバンの活動は日に日にエスカレート、内容もどんどんと過激なものへと変わってゆきます。
ついには美しかった山と緑と川の渓谷は、死の渓谷へと変わってしまったのです。

タリバンに反対する人や厳格なイスラム原理主義に則った行動をしないものは、傷つけれれ、命を狙われるようになりました。
野蛮な公開裁判や公開処刑が行われ、住民は恐怖と隣り合わせの生活を強いられます。
最終的には1000人以上の一般人や警察関係者が殺され、町中に死体が溢れました。

住民の多くは、タリバンを恐れて声を上げることができませんでした。中には洗脳される者もいました。

タダでさえ、腐敗した政治家や軍の独裁者に苦しめられてきたパキスタンの人々。そこに大地震や大洪水などの自然災害に遭い、国全体の混乱が立て直せないうちに、追い打ちをかけるようにスワートにはタリバンがやってきました。

政府や軍がスワートに手を差し伸べてくれるまでにはかなり時間がかかりました。
タリバンによるスワートの支配は、約5年の間続きます。
一時は、180万人いたスワートの人口の半分が、スワートから逃げて国内避難民となったといいます。

しかし最終的には、掃討作戦を掲げる政府軍のタリバンとの激しい銃撃戦の末、タリバンをスワートから追い出すことに成功します。


と、これがつい6年ほど前までここスワートで実際に起きていたことです。



ノーベル平和賞を受賞した、マララ・ユスフザイさんの故郷。


タリバンを恐れ、声を上げることができずに苦しんでいたスワートの人々。

ですがそんな中でも、希望を捨てずに勇気を持ってタリバンに反対し、声を上げ続けていた住民も少なからずいました。スワートで女子学校を経営していたジアウディン・ユスフザイ氏の娘、マララ・ユスフザイさんもその一人でした。

彼女は、「わたしはマララ」の著者でノーベル平和賞の受賞者でもあります。
みなさんも、本屋などで一度は目にしたことがあるのではないでしょうか?
実はスワートは、世界的に有名になった、彼女の故郷でもあるのです。

女の子が外で遊ぶのはあまりよく思われない。料理をしたり、兄や弟や父親の世話をするのが当たり前。男は子供でも大人でも自由に外を出歩けるのに、女性は、家族や親類の男(5歳の子供でもいい)がつきそっていないと出かけることができない。それがパシュトゥン族社会の伝統。
彼女はそんなパシュトゥン族の伝統の色濃く残るスワートに産まれながら、教育者の父親に「マララは自由な鳥になれ」「どんな思想をもったっていい、それをどんなふうに表現したっていいんだ」と言われて育ったそうです。
タリバンがスワートに来てから、父と共に、平和を求める運動に参加していました。
彼女は、タリバンの支配が進み女性の教育が禁止されている状況の中でも、必死に勉強を続けました。

スワートで何が起こっているのかを日記に綴りブログに載せたり、多くのマスコミのインタビューを受けて、スワート渓谷で恐怖におびえながら生きる人々の惨状や、タリバンによる女子校の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続けました。そうしていくうちに、パキスタン中、世界中から注目を浴びるようになります。
タリバンに反対する人が次々と殺されたり傷つけられてゆく現実を目近に見つつも、臆することなく勇気を持って声を上げつづけた彼女でしたが、そうした活動を理由に、十代の子供ながら、タリバンから命を狙われる存在になります。脅迫状を送られたり、誰かにあとをつけられる体験をしたこともあったのだとか。


そんな中、2012年10月9日火曜日、悲劇が起こりました。

15歳だったマララさんは、下校途中のスクールバスの中で、タリバンによって至近距離から頭を打たれました。
(この時犯行声明を出したタリバンは、マララさんの活動を、「教育権を求める女性の反道徳的活動」と批判し、西洋文化を広めようとしたことへの報復であるとし、テロ行為を正当化。)

その後ペシャワールの病院に救急搬送され、たまたま近くで医療活動を行なっていたイギリスの医師に助けられ、イギリスに運ばれて治療を受けます。

一時は生死の境を彷徨ったマララさんでしたが、奇跡的に命を取り留めます。目を覚ましました時には、パキスタンではなくイギリスの病院にいました。

15歳の女子学生を狙い撃ちにしたこのテロ事件は、世界中に大きな衝撃を与えました。
恐怖に脅えながらも屈しない姿勢が多くの人々の共感を呼び、マララさんは、とりわけ教育の機会を奪われた女性たちの希望の象徴となりました。

そして必死のリハビリの末、9ヶ月後には、ニューヨークの国連本部で、世界に向けて教育の大切さを訴える演説をおこないます。
その中で、タリバンの銃撃のことやその後のことをこのように話しています。


2012年10月9日 タリバンが私の額を撃ちました。
私の友達も撃たれました。
タリバンたちは 糾弾が私たちを沈黙させると思ったのです。
ですが それは彼らの見当違いでした。
沈黙どころか 無数の声がわき上がったのです。
テロリストたちは 私が目的を変え 志を曲げるだろうと思っていたのです。
しかし変わったことと言えば
弱さ 恐れ 絶望が消え
強さと勇気が生まれたことです。
私は前と同じマララです。
志も変わりません。
希望も 夢も変わりません。
みなさん 私は誰とも敵対したりしません。
まして タリバンたちに復讐するためにここに立っているのではありません。
全ての子どもたちが教育を受ける権利のために 私はここにいるのです。
すべてのテロリストの子どもたちに教育を受けさせてやりたいと思います。
私は 私を撃ったタリバンを憎んではいません。
たとえ私の手に銃があり その男が目の前に立っていても
私は撃ちません。
これは ムハンマド キリスト ブッダから学んだ 慈悲の心です。
キング牧師 マンデラ ジンナーから受け継いだ 変革という遺産なのです。
この非暴力の考え方は ガンディー バチャ・カーン マザー・テレサから学びました。
そしてこれは 父母から教えられた寛容の心でもあります。

“ひとりの子ども、ひとりの教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えるのです。”

マララさんは非暴力による抗議活動の世界的シンボルとなり、のちに史上最年少のノーベル賞受賞者となりました。
彼女は演説で
“世界中の全ても子どもたちに無償で良質な初等及び中等教育を”と訴えます。


一体どうして、「強い」と言われる国々は
戦争を起こす上では非常に強力なのに
なぜ平和をもたらすときは、あまりに弱いのか。
どうしてなんでしょう。
銃を渡すことはとても簡単なのに
なぜ本を与えることはそれほど大変なのか。
一体どうして。
戦車を造るのはきわめて易しいのに
なぜ学校を建てるのはそんなに難しいのか。
現代に生きる私たちは
不可能なことはないと信じています。”


銃撃事件の後は家族とともにイギリスで暮らすマララユスフザイさんですが、2018年の3月29日、短期滞在ではありますが、事件後初めて祖国パキスタンのスワートへの帰郷も果たしたそうです。

命を狙われる危険性が高いので、「マララはもうパキスタンに戻って暮らすことはできない」という人もいるようですが、
いつの日か、大好きな故郷のスワートに戻り、平和に暮らすのが彼女の夢なのだそうです。


***
参考


タリバン支配下のスワート渓谷のこと、
パキスタンのことが詳しく書かれています。

***

以下、マララさんの国連でのスピーチやノーベル平和賞受賞時のメッセージ動画を載せます。






平和になったスワートを訪ねる


このように暗い過去をもつスワートですが、もともとは、緑に溢れた自然の宝庫であり、仏教遺跡が多く残る、興味深い歴史を持った魅力溢れる地域でした。
パキスタンの治安が悪化し、タリバンが来るより以前は、観光に訪れる外国人も少なからずいたようです。

現在、スワートからタリバンがいなくなってから5年以上の月日が経ちます。
今のスワートはとっても平和です。
スワートのあちこちでチェックポストが設けられていて、再びタリバンが戻ってこないように万全の警備体制も敷かれています。

ですが暗黒の数年間の後、(パキスタン国内の観光客は徐々に戻ってきているようですが)、外国人はほとんど寄り付かず、以前のような活気はなくなってしまいました。

日本の外務省も、現在のところこの地域への邦人の渡航は容認していません。
外務省も日本大使館も、旅行者の面倒ごとに巻き込まれるのはごめんでしょうから。。
ただ私の場合、パキスタン、そしてスワートに関しては、ビザが取れ、特別許可証を取らなくとも現地の交通機関で容易に辿り着ける場所なので、大丈夫だと思っています。もちろん、事前に出来る限り現地の治安状況を確認して行きましたが。
とは言え気軽に訪れていい場所でないことはわかっていましたし、この記事で渡航を促すつもりもありません。


ただ、なるべく多くの人に伝えることができればと思っています。
スワートの過去を、現在を、そしてこれからを。
スワートに生きる人々の今の姿を。


私はひょんなきっかけからスワートを訪れようという気になり、幸運にもその機会に恵まれ、実際に訪れて何事もなく始終安全に過ごすことができました。
そしてそこでも親切にしてくれる人々にたくさん出会いました。
今のスワートをこの目で見て、知ることができました。


次の記事以降、私が現在のスワートで見たこと体験したことをお話したいと思います。
そして出来る限りスワートの魅力を多くの人に伝えられたらと思います。


2018年5月 日記より


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