春のフンザ、パスー村を経由し、国境の町スストへ。
そこから乗り合いジープに乗車。チュプルソン谷へ向かう。
チュプルソンは、パキスタン最北部のアフガニスタン国境近くに位置する谷。
全部で12のちいさな村に、半農半牧生活を営むワヒ族が暮らしている。
車一台分通れるだけの幅のでこぼこ道を進む。
ぎゅうぎゅうに押し込められたジープに3時間ほど揺られ、辿り着いた最奥の村。
ズートホンには、まだ花や緑といった色彩に溢れるような景色はなかった。
標高が3500mほどあるため果樹などは育たないのだいう。
私が訪れた4月頭はまだズートホンでは冬が開けはばかり。
荒涼とした景色が広がるが、空は澄んだ青色をしていてとても綺麗だった。
まだまだ寒いのだけれど、日差しはとても強かったようで。
曇りがちの日、たった一日、日焼け止めを塗らなかっただけで、顔がえらいことになってしまった。
景色こそ少しばかりもの寂しさを感じるものだったけれど、それでもチュプルソン、ここズートホンでは、信じられないくらいに綺麗な瞳にたくさん出会えた。
それだけでも、行った価値があったと思う。
ここでも村を歩いているとみんな手を振って話しかけてくれ、「チャイピュ?(チャイ飲んで行かない?)」と家に招いて歓迎してくれた。
家の中は、パスーでお邪魔させていただいたお家のつくりに似ていた。
部屋の奥には大きな食器棚。家の真ん中には薪ストーブがあり、チャイやパラタをそこで作る。
その周りはやっぱりくつろぎスペースで、一段上がったところは寝る場所になっている。
上部フンザのスタイルである塩味のチャイをいただき、揚げパンのような美味しいパラタをいただく。
そうしている間にいつの間にか家族や親戚たちが集まってきて部屋の中が賑やかになった。
普段ならば人がたくさん集まる場所が苦手な私。
それなのに不思議とここではすぐに打ち解けることができて、あっという間に心を通わせることができてしまう。
お世話になった人々に贈ろうと持って来ていた手作りの花のキーホルダーを渡したら、とても喜んで部屋に飾ってくれた。
温かな歓迎に身も心もお腹も満たされ、丁寧にお礼を言ってお別れをする。
そうしてまた村の中を歩き出すのだけど、またすぐ先にある別の家族が声をかけてくれて、家に招いてくれる。
この村では、そんな心が温まる出会いとおもてなしの連続。
そういうわけなので、宿を出発して何時間も経つのにいつまでも宿が見える場所から進んでなかったりする。
それでも、地元の人々との交流に、旅をするうえで何よりもの価値を感じている私は、こうやって一日を過ごせるのが一番嬉しかったりする。
ワヒ族はほんとうに、ホスピタリティに溢れた穏やかで心優しい人ばかり。
子どもたちは無邪気で明るくていたずらっ子で、いつもケラケラ笑ってる。
おそらくほとんど訪れることがないだろう外国人が急に家にやってきても、警戒心一つ見せずに可愛らしい笑顔を向けてくれる。
目が合うと、はにかんだような笑顔になるちょっとシャイな子もいて微笑ましい。
みんな、「目の前にあること全てが楽しくて、面白くて仕方ない」そんな瞳をしていた。
構って欲しくてちょっかいを出してくるので、捕まえようとするとキャーキャー悲鳴をあげて喜ぶ。
自然と私も彼らと一緒になり、子どもの心に帰ったような気持ちで一緒にたくさん遊んだ。
そこに、口に出して伝える言葉は必要なかった。
言葉がわからないからこそ、笑ったり驚いたり、表情やジェスチャーなど体全体を使って伝えようと努力する。
そこから笑顔が生まれて、言葉じゃない会話が始まる。
*
彼女の名前は、フェリナ。男の子に混ざってクリケットをして遊んでいた。
村の小道を歩いていた私を見つけて手を振ってくれ「こっちにおいで〜」と声をかけてくれた。
クリケットの仲間に入れてくれたのだが、生まれて初めてのクリケット体験。下手くそすぎて子どもたちを翻弄させてしまった。
天真爛漫で心の優しいフェリナ。
クリケットのあと家に招いてくれ、家族や親戚友人たちも集まり、またチャイやパラタをご馳走になった。
フェリナは賢い少女で、英語も話すことができた。
そんな彼女の将来の夢は、「心臓外科医になること」
小さな村に暮らす少女の、大きな夢。
「夢は、本気で願って、諦めずに努力を続ければ、きっと実現すると思うんだ。
フェリナならなれると思う。応援しているからね。」そう伝えた。
フェリナとお母さん、家族や親戚の子どもたち。
*
聖者のお墓、ババガンディジアラットへ
ここズートホンをさらに奥に進むと、ババガンディジアラットと呼ばれるスーフィーの聖者のお墓がある。
ここに眠っている聖者は奇跡の力を持っていたと言われているらしく、今もパキスタン中から多くの巡礼者が訪れると聞いた。
宿のオーナーには「今は軍の管理下に置かれているから、外国人は入れないよ」と言われたのだけど、それでも行けるところまで行ってみよう!と思いひたすら歩いていたところバイクのおじちゃんが通りかかり、「ジアラットは遠いから歩いていくのは大変だよ〜」といって、バイクで連れて行ってくれた。
(歩いても2、3時間くらいかな、程度に思っていたが実際は丸一日かかりそうな距離があった)
ジアラットに着いて軍の人と話してみるとパスポートと、事前に取得しておいたチュプルソン谷のパーミッションを見せたら中に入ることをokしてれて、お墓の中まで見学させてもらうことができた。
あとあと宿のオーナーにそのことを話したら「今まで他の外国人は行けなかったんだけど・・君はラッキーだね!行けてよかったね!」と。
ババガンディジアラットは人里から何キロも離れた谷間にある。
夏の間は美しい草原が広がり、ワヒ族の放牧のための夏小屋としても使われるらしい。
10年ほど前は、そのまま数日間のトレッキングでイルシャドパスを超え、アフガニスタンに入ることもできたようだけれど、現在これより先は完全に軍の管理下に置かれているため外国人は通行できない。
*
パミールサライ
ズートホンでは、昔からバックパッカーの間で親しまれてきた宿「パミールサライ」にお世話になった。
オーナーのアラムジャーン・ダリオ氏は、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタンの地を何度も訪ね歩いた、ワヒ族の間で有名はトレッキングガイド、ミュージシャン。
この人に会って話を聞けるだけでも、ここに来る価値はあると思う。
背が高く屈強なワヒ族男性でありながら、物腰は柔らかくいつも穏やか。
この宿は、ダリオ氏の家にホームステイさせてもらっている感覚で泊まることができる。
ダリオ氏と奥さんと子ども2人とおばあちゃまの5人家族の一員にさせてもらった。
パミールサライの宿の壁には、大きな絵が描かれていた。(過去に泊まったツーリストが描いてくれたとのこと)
残念なことに写真を撮るのを忘れてしまったけれど、そこにはワハーンやパミールの山々や人の絵と共に
live without boaders...
そんなメッセージが描かれていた。
あるときダリオ氏に、陸路でパキスタン、アフガニスタン、タジキスタンをまたいで訪ね歩いた話聞いているときのこと。
「それは、なんという名前の国境を超えたの?」と尋ねたことがあったのだけど、それに対するダリオ氏の答えが今も印象に残っている。
「国境は超えていないよ。俺にとっては、国境なんてものは存在しないんだ。」
ダリオ氏は、ここでの暮らしがとても好きなのだと言う。
「パキスタン人は、みんな日本や外国に行きたがるけど、俺にはそれが理解できないんだ。日本はいつだってBUSYだろ?でも、ここでは誰も急いでいないよ。朝目が覚めたら空を見て、お腹が空いたらご飯を食べて、晴れた日には畑仕事や家畜の世話をして、家族や友人とゆっくりお茶をする。4歳のクムクム(ダリオ氏の娘)はもう薪で火を起こしてご飯を作ることも洗濯の仕方も、畑の手伝いも家畜をどうやって扱うのかも知っている。どこにいても、生きていける力をすでに持っているよ」
そう、ダリオ氏は言っていた。
「パキスタンの都会に住む人も、日本の人もみんな、チュプルソンに来て見たらいいよ。
ここに暮らす住民は、いつだって外から来る人たちを温かく迎え入れてくれるから。」
*
“LIVE WITHOUT BORDERS...”
3カ国にまたがって暮らすワヒ族の人たちは、
LIVE WITHOUT BORDERS (国境なく生きる)と言う言葉を象徴するような、平和を象徴するような人たちだ。
ダリオ氏をはじめここに生きる人たちから
”本当に豊かな暮らしとは何か”を体験的に教えてもらったような気がする。
生活するのが楽な土地ではない。
標高が高く冬が長いし、育つ作物も限られる。便利な電化製品も何もない。
でも、みんな心に余裕を持っていたし、何より誰もが心からの笑顔で接してくれた。その瞳に嘘や偽は何もなかった。
そして誰もが「チュプルソンが好き。家族や親戚が好き」
と言い、自分たちの土地を愛し、家族や親戚を愛していた。
生まれ故郷で、家族や親戚と一緒に暮らせると言うごく当たり前なことが、どれだけ幸せなことなのかを教えてくれた。
*
日本でのありふれた日常に戻った今。
チュプルソンのみんなが温かく迎え入れてくれたあの時のことを思い出すと、それだけで胸がいっぱいになる。
チュプルソンが、そしてパキスタンが懐かしく、恋しくて仕方ない。
あの美しい瞳に会うため、きっとまた、私はチュプルソンに行くことになるのでしょう。
そのとき、キラキラ輝く瞳をもったあの子どもたちは、どんな風に成長しているのだろう?
今からとても楽しみだ。
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